【歴史】「弥助」ってどんな人? 織田信長に仕えた黒人武士の生涯を歴史資料で追った★2

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190608-00010007-huffpost-soci

ブラックパンサー』で黒人ヒーローを演じたチャドウィック・ボーズマンの新作映画の報道が話題だ。
織田信長に仕えたという記録が残る、黒人の武士「弥助(やすけ)」を描いたハリウッド映画で主演するというのだ。

5月7日付けのアメリカのエンタメサイト「DEADLINE」に対して、ボーズマンさんは「弥助の伝説は、世界史の謎の一つだ。
アジア系以外でサムライになった唯一の存在(※)だよ。単なるアクション映画ではなく文化事業であり、異文化交流だから、
僕はそれに参加できて興奮しているよ」と語っている。
(※実際には、徳川家康に仕えて旗本となった三浦按針ことウィリアム・アダムスの例もある)

果たして弥助とは、いかなる人物なのか。謎に包まれた弥助の生涯を歴史資料から追った。

イエズス会の宣教師が連れていた黒人奴隷だった。

弥助について触れた一次資料は非常に少ない。
ただ、弥助が信長の最晩年、天下統一にあと一歩まで迫った時期に宣教師の黒人奴隷として出会い、
その後に家臣になったということまでは、はっきりしている。

天正9年(西暦1581年)2月23日に、イエズス会の宣教師オルガンティノが、京都で織田信長に面会した際に、
黒人奴隷の従者を連れていった。これは日本側とイエズス会の報告の両方に記録がある。

キリシタンの国から黒人がやって来た。年齢は26~27歳ぐらいのようだ。全身がウシのように黒い。
この男は健康で力が強く、10人がかりにも勝てそうだ。バテレンが連れてきて、(信長様に)挨拶させた(太田牛一信長公記」)>

<信長も黒人奴隷を見ることを望んでいたため、宣教師のオルガンティノが連れていったところ、信長はその色が生まれつきで、
後から塗ったものでないことを信じようとせず、帯から上の着物を脱がせた>(ルイス・フロイスの報告「イエズス会の1581年の日本年報」)>

そして翌1582年5月11日、徳川家康の家臣である松平家忠の日記に「信長には弥助という名前の黒人の家来がいる」という記述がある。
信長が家康と組んで武田勝頼を攻め滅ぼした「甲州征伐」の際に、信長に随行していたようだ。

「信長様が、宣教師から進呈されて召し抱えたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は6尺2分(約1メートル82センチ)。
名は弥助という」(家忠日記

これらを総合して、オルガンティノが引き合わせた黒人奴隷を信長が召し抱えて武士となった。そして「弥助」という名前を付けられた
というのが定説となっている。

■「短刀と屋敷なども与えられた」との記述も

宣教師たちの記録から、初対面の出来事を補足しよう。当時、日本人にとって黒人の姿は非常に珍しく各地で人だかりができて、負傷者まで出る騒ぎになったようだ。
珍しい物が好きな信長といえども、黒人の存在をにわかには信じることができなかったらしい。

上半身の服を脱がせて半裸にしただけでなく、体を洗わせたというエピソードもある。アレッサンドロ・ヴァリニャーノは
「信長は黒人奴隷の服を脱がせて体を洗わせたところ、洗い擦るほど一層肌が黒くなった」と記述している。

しかし、その後、信長は、この黒人をすごく気に入ったようだ。

フロイスは「黒人奴隷は少し日本語が分かったので、信長は彼と話して飽きることがなかった。また、彼が力強く、芸も少しできたので、
信長は多いに喜んで庇護し、人を付けて京都市中を歩き回らせたので、『信長は彼をトノ(武将)とするのでは』という声もあった」と振り返っている。

また、「信長公記」のうち、太田牛一の子孫に伝わった「尊経閣本」と呼ばれるバージョンでは、上記に続いて
「黒人は信長様から家臣として召し抱えられて俸禄を得た。名前は弥助とされた。短刀と屋敷なども与えられた。
時折、信長様の道具を運ばされた」とする記述がある。

もし、この記述が事実であれば、信長に側近として仕えたことになる。

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1が建った時刻:2019/06/08(土) 21:48:37.67