【一筆多論】スー・チー氏の姓・名は? 内畠嗣雅

2019.6.11 09:01

ミャンマーアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相=5日、(MTI=AP)
https://www.sankei.com/smp/column/news/190611/clm1906110005-s1.html

 ミャンマーの政治指導者、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相の名前は、どれが姓でどれが名ということはなく、「アウン・サン・スー・チー」全体がひとつの名である。大半のミャンマー人は姓を持たない。したがって、スー・チー氏と表記するのは本当はおかしいのだが、全部書くと長いので、日本の新聞では、初出以外、スー・チー氏とすることが多い。

 「アウン・サン」なしの短縮表記はかつて、スー・チー氏ら民主化勢力を弾圧した軍事政権が推奨するものでもあった。スー・チー氏の父親は建国の父で死後も国民が敬愛するアウン・サン将軍であり、「アウン・サン」のところは父親からとった。スー・チー氏の当時の絶大な人気は、国民が彼女の姿に将軍の面影を重ねたからでもあり、「アウン・サン」を含む名前はそれが強調されるため、軍政がいやがったのだ。


 スー・チー氏は1970年前後、ニューヨークに滞在し、国連本部で働くなどしたが、当時の国連トップはミャンマー(当時はビルマ)人のウ・タント事務総長だった。「ウ」は男性の敬称で「ミスター」に相当するものだから本当はタント事務総長でないとおかしい。ウ・タント氏を政府要職で重用した初代のウ・ヌー首相も本当はヌー首相だ。おそらく、ビルマ人の間では、失礼にあたらぬよう敬称付きで名を呼び合うのが自然で、それで定着したのだろう。日本人も「さん」付けの姓で呼び合う方が居心地がよい。共通する感覚と思われる。


 スー・チー氏は女性だから、敬称は「ウ」でなく「ドー」である。「ドー・アウン・サン・スー・チー」の表記は長すぎて、新聞記事では使いづらい。「ウ・タント」や「ウ・ヌー」が定着したのは、もともとの名が短く、敬称付きの方が落ち着いたからではなかったかとも想像する。

 日本人の名前について、ローマ字表記でも「名・姓」でなく「姓・名」の順にしようと河野太郎外相や柴山昌彦文部科学相らが呼びかけている。河野氏は、外国メディアで中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領の表記は「姓・名」の順だから、安倍晋三首相も「姓・名」の順にしてもらうよう要請したいと述べた。日本人も本来の並びでというのはもっともな意見だ。だが、「Shinzo Abe」、「Xi Jinping」の表記に接して、米国人なら大半は、安倍」と「近平」が姓だと受け止めるだろう。


 報道する側の立場でいえば、重要なのは日本の首脳、中国の首脳が何をし、何を言い、それがどんな意味を持つのかであって、記事の中で、姓か名かを説明する余裕はない。スー・チー氏と表記すれば、ノーベル平和賞受賞者で、ロヒンギャ難民をめぐる対応で国際社会の非難を浴び苦戦しているミャンマーの国家顧問兼外相のことであり、短縮表記のせいで別人と誤解する人はまずいまい。

 名前は各国固有の文化である。多民族国家であれば、民族によって異なり、移民国家は祖先がどこからやってきたか察することができる。日本の「名・姓」のローマ字表記は、明治の欧化主義の時代に定着したものだという。「洋装」の一つでもあったのだろう。日本にそういう時代があったということも、忘れてならないのではなかろうか。(論説委員